2014年1月8日水曜日

【レポート】週刊朝日で、徳川氏らとトーク

 週刊朝日で『戦国武将「末裔」座談会』が企画されて、2013年の11月6日に朝日新聞東京本社の読者ホールで、実現しました。

 座談会に出席したのは、徳川家18代当主の徳川恒孝(とくがわ・つねなり)氏、武田家16代当主の武田邦信(たけだ・くにのぶ)氏、真田家14代当主の真田徹(さなだ・とおる)氏、それに私が加わりました。また、4人のトークに、歴史的背景説明などをするために歴史家の小和田哲男氏が参加。司会はNHKの歴史秘話などに登場して、知られる渡辺真理さんでした。

 武田家は織田信長に攻められて、滅亡しましたが、お話しを聞くと、徳川家が血筋をつなぐために「高家」として、ちゃんと庇護してきたそうです。徳川さんは、長宗我部家も武田家のように、高家でもよかったですね、とおっしゃっていました。
 しかし、長宗我部は、大坂の陣で、一度ならず、二度までも歯向かったわけですし、ここで「比護」されてしまったのでは、盛親の意地が無になってしまうと思い、ご遠慮いたすことにいたしました。もっともこれは冗談ですが。そんな感じのお話も、今だから出来たということでしょう。
 座談会は週刊朝日の2013年11月22二日号に掲載されています。
http://astand.asahi.com/webshinsho/asahipub/weeklyasahi/product/2013111800006.html
 

【告知】長宗我部盛親の慰霊碑を建立

 大阪冬の陣、夏の陣と二度にわたって参戦。徳川家康によって、斬首された長宗我部家二十二代当主である長宗我部盛親の慰霊碑が、没後四百年にあたる2015年の5月に、長宗我部の神社である秦神社(高知市長浜)に建立される。
 先代の当主であった元親が、天下分け目となった関ヶ原の戦いの前年に死去した。
そうしたともあって、盛親は家臣団を統率しきれないまま、関ヶ原に向かわざるを得ず、結局、豊臣方につき、戦には敗れて敗軍の将となった。このため土佐国はめしあげられ、浪々の身となる。
 その後、一矢、家康に報いようと、豊臣方の誘いもあって、大阪の両陣に参加したものの、豊臣秀頼は、自害して果てるという結果となった。盛親は家康方に捉えられて、賀茂の河原で処刑される。世の流れが徳川に総てなびいていく中、家康にあくまでも抵抗、武士の意地を通した格好である。
 それからはや400年の月日が流れる。しかし、元親、それに長兄の信親の墓は土佐にあるものの、盛親の墓はいまだ土佐にはない。
 そこで、この不運の将、盛親の心を鎮めるためにも、慰霊碑を秦神社に立てようとの声があがった。秦神社の宮司もかねている、若宮八幡宮の大久保千尭さんに中心になっていただいて、「長宗我部盛親公慰霊碑建立期成会会」が立ち上がり、高地県内外からも浄財が集まっている。同会事務局連絡先・若宮八幡宮(088・841・2464)。期成会の会長は長宗我部友親です。

下は、盛親公慰霊碑の完成予想図です。
また、記事は高知新聞から。